何も持たない彼女が死んで、
その両親が僕に渡したものと言えば、
それは彼女の美しく長い黒髪。
「遺髪を、受け取って頂けませんか」
「あの娘は貴方に何か残したがっていましたから」
「どうかもらってやってください」
「他にあの娘が貴方に残せるものは、何も無いのです」
彼女が形あるものをこよなく愛したこと、
そして僕を強く愛してくれたこと、
僕はみんな覚えている。
形なきものをこよなく愛する僕が、
そんな彼女に惹かれた理由、
僕はみんな忘れてしまった。
「貴方が私より先に死ぬなら、何も残さないで頂戴ね」
「形なきものをこよなく愛した貴方を、私は愛しているから」
「だから貴方からは何も受け取らない」
「その代わり」
「私が貴方より先に死んだら」
「貴方は何でもいい、私の持つ何かを」
「何かを受け取って頂戴ね」
「私は何も持っていないけれど」
「それでも何もないということはないわ」
だから僕が彼女の美しく長い髪を受け取ることは、
自然なことだったのだ。
僕は彼女の言葉に従い、
彼女の髪を受け取った。
彼女を失った僕の夢の中で、
僕は彼女に再び出会う。
伸びる美しく長い黒髪、
彼女の髪は伸びるのが早かった。
僕はそれを覚えている。
次の朝の僕の傍らで、
彼女の美しく長い黒髪は、
美しく長い長い黒髪になっていた。
「彼女は亡くなったのでしょう」
「なのに、まだ髪が伸びるというの」
「それは、とてもおかしいわ」
「それは奇妙だわ」
「それは異常だわ」
彼女の後にやって来た貴女に
そんなことを言う資格なんて、ない。
伸びる伸びる伸びる美しく長い長い長い黒髪、
どんどん伸びて、
まずは僕の部屋を覆い尽くす。
「まだ伸びるの」
「貴方の部屋はもう真っ黒じゃない」
貴女には関係の無いこと。
伸びる伸びる伸びる伸びる美しく長い長い長い長い黒髪、
まだまだ伸びて、
次は僕のベッドを覆い尽くす。
「ねえ、どうして逃げないの」
「貴方はもうベッドから出られないじゃない」
ならどうやって逃げろと言うの。
伸びる伸びる伸びる伸びる美しく長い長い長い長い長い黒髪、
いつまでも伸びて、
遂には僕を覆い尽くした。
「貴方が見えないわ」
「むせかえるほどの花の香りしかしないわ」
「何処にいるの」
「応えて」
花の香りは、死んだ彼女の髪の香り。
それは死者へ手向けられる、
天の星よりは少ない、
僕の庭の花よりは多い、
幾万の黒い花。
ベッドは棺、
部屋は墓場、
その中で僕は、
美しく長い長い長い長い長い長い黒い花に埋め尽くされて、
穏やかに息を止めた。
何も残さずに。
「ねえ」
「貴方、此処にいるの」
了