フルーヴェニク
伯爵の娘
亜麻色の髪の娘
薄紅の頬の娘
薔薇色の唇の娘
その晩は雨であった
伯爵の家の明かりは既に消え
召使も誰も起きてはいなかった
ただ二人を除いては。
庭師は言う
おお、愛しき我が姫よ
麗しのフルーヴェニクよ
貴女に言い寄る貴公子達も
水面の煌きの数ほどある宝も全て
私の為に捨て去ってくれるのか。
フルーヴェニクは言う
ああ、愛しい人
私に与えられる全てに
どれだけの価値がありましょうか
どれだけの意味がありましょうか
貴方無くして我が身の幸福など
一体どうしてありましょうか。
雨降る真夜中
二人は手に手を取って逃げたのだ
庭師は父の形見の剣
フルーヴェニクは頬と唇に刺した紅以外
一切何も持っていなかったと言う事だ。
しかし二人が森に着くと
既に其処には人々が居た
農夫達は二人を耕さんと農具を掲げ、
忠実なる執事は銀の短剣を掲げていた。
哀れなフルーヴェニク
そして愚かな庭師よ
お前達の拙い企みなど
伯爵が知らぬと思うたか。
娘は小さく叫び
若者はその手を引いて更に逃げた
人々は二人を嘲笑い
手に手に振りかざした道具を鳴らして
ゆったりと追いかけ始めた。
後を付けて来る人々を恐れ
嘆き悲しむ若い庭師は
夜よりも暗き森の奥で
ふと、ひどくしゃがれた声を聞いた。
ようよう、お前さん
力を貸して欲しいか
お前がこの世で一番大切にしているもの
それをくれるのなら
この森の翁が力を貸そう。
庭師は頷いて言った
ああ、森の翁よ
どうか私と、このフルーヴェニクを
彼の者共から遠ざけてくれ。
翁は満足して言った
承知した
ならばそこから動くでないぞ
今から後ろの馬鹿者共を
森の奥へと迷わせてやろう
そう言うと翁は樫の杖を振り
忠実なる人々は消え去った。
翁は庭師をねめつけて言う
さあ、約束だ
お前の大切なフルーヴェニクを
この老いぼれに寄越すのだ。
しかし庭師は首を振った
森の翁よ
それだけはできない
今我が姫を失えば
我が身を生かす術が無い。
森の翁は憤り
杖を庭師に突きつけた
不実なる若者よ
ならばその身に相応しき末路を
この俺が与えてやる。
ほんの二度ほど瞬きをして
庭師は我が目を疑った
右手には血に濡れた父の形見の剣
そして左手には
愛しいフルーヴェニクの首。
ああ、何と言う事だ!
最早嘆くことすら許されぬ
愛しいフルーヴェニク
我が身が君に死をもたらしながら
君の末期の声が聞け無かった事だけが
今の私に許された幸いか。
紅き両の手で顔を覆い
泣き崩れる庭師を見やり
森の翁は唇を歪めた。
この間抜けめが
だが嘆く事は無い
それ、聞こえるかあの足音が
先刻森の奥へと誘った奴等が
血の匂いを嗅いで戻って来たぞ。
哀れな庭師は恐怖と狂気に苛まされて
咄嗟に愛しい娘の首を
手近な花の中へと埋めた
松脂の燃える匂いと橙色の熱い炎が
人々の怒号が若者を照らし出すまで
大して時間はかからなかったという事だ。
さてさてこの悲劇の後に
件の森では雨の日の夜
虚ろな眼をした女の顔の
大きな花が咲くと言う事だ
ふつふつと時折思い出したように
薔薇色の唇から種を吐き出すその花を
今は亡き者達の事を知る人も知らぬ人も
フルーヴェニクと呼んでいる。
了