「今日はバレンタイン・デー!皆さん、チョコレートの準備はよろしいですか?今年は・・・」
正午近く、いつもよりも遅く起き出した俺の耳を打ったのは、甲高い人間の女の声だった。

(ふむ。今年もまた「例の日」がやって来たか)
銀杏並木の一角に設けた栖の入り口から、生欠伸を噛み殺して外を垣間見る。
今日も今日とて余裕に欠ける人々に混じって、いつもより少し多くの「福」が飛び回っているのが見えた。
(やはり「鬼」の数は少ないな・・・)
左右に泳がせた視線の先に、同僚の姿は見えない。
俺と同じ「鬼」の姿は。


昨年「福」としての務めを果たした俺は、数日前に再び「鬼」の役目を担ったばかりだった。
慣わしとはいえ、いつもながら不幸を運ぶのは気が重い。
いい加減慣れてもよいものだろうに、と自分自身に問うてみても、何故か溜息が漏れるばかりだ。
たかが1年、されど1年。この1年は時が行くのが遅く感じる。


そんな「鬼」にとって、1年の内に特に気が重い日というのが何日か存在している。
最たるものは正月だ。この日ばかりは、同じ神々にも嫌な顔をされてしまう。
そしてこの日・・・「バレンタイン・デー」もそんな日の1つだった。
常日頃より男と女の縁に関わる時と場所には「福」と「鬼」が多く集まる。
しかし、この日は人の縁が強まることの多い日。
縁を取り持つ「福」の力が強まり「鬼」の仕事がうまくいかない日なのである。

故に俺は、数年前からこの日は仕事をしないことにしていた。
1日くらい何もせずとも、どうということはない。

明日になればまた、両の腕に不幸を山と抱えて飛ばねばならぬのだから。


(縁、といえば・・・縁(ゆかり)はどうしているだろう?)
寒々しい枝の隙間から今新たに縁を結んだ少年少女の後姿を眺めつつ、俺は或る娘神のことを思い出した。
昨年、初めて「鬼」の仕事を担うことになり、不安に泣き出しそうだった
彼女を見つけ、気が付けばその手を握り締めていた。

「俺がこれより1年間、そなたに付き添うてやる」
泣き顔が驚き顔に、そして笑顔に。
抱き締めた身体の細さも衣の滑りも忘れてはいない。

1年の間片時も離れることなく、俺は縁に様々なことを教えた。
時にお役目の重さに涙することや、気落ちすることもあったが、縁は一所懸命に務めを果たした。
そして、10日程前。


「針(しん)様。1年間、お世話になりました。本当に、本当に、ありがとうございました」
そういって頭を下げた縁は、静かに「鬼」の札を差し出した。

「私、今度は1人でお務めを果たしてみます。1日も早く針様のようになれるように、頑張りますから!」
薄桃色の衣に包まれた肩が僅かに震え、握った札に雫が落ちた。
「縁・・・」
別れの辛さに泣いてくれているものと信じ、1年前と同じようにその背を
そっと撫でた。

「俺は嬉しいぞ。そなたが無事に巣立ってくれることがな」
いつまでもいつまでも、その温い背を撫でていたかったが。
豆撒きは終わり、俺は「福」の札をそっと縁に握らせた。


(・・・恋しがっているのは俺の方か)

桃の花を彷彿とさせる姿を目蓋の裏に描きながら、疲れたような溜息を吐く。
まだ10日しか経っていないというのに、何がこんなに寂しいのだろう。
探せばすぐにでも会えるというのに、何故そのようにしないのか。
(いつまでも俺が傍にいるのは、縁の為にならぬ)
それはそうだと納得しつつ、どうでもいいような気にもなる。
(会いに、行こうか?)
一体この10日、幾度自問したことか。


「縁に会いに行くか?」
意味もなく声を出してみたその時、春1番に乗って心地よい音が飛んできた。
「針様!!」

髪にあしらった玉飾りの音。そして声。
「何!?」
体当たりのような勢いでぶつかってきた身体を受け止め、そのまま2人して倒れ込む。
「縁・・・そなた・・・」
「あ、あ、申し訳ございません、針様!」
慌てて飛び起き乱れた髪を整えると、縁は10日前には見ることの叶わなかった笑顔でいった。
「あの、今日、バレンタイン・デーですから!渡さなくちゃって!!」

そういって目の前に差し出されたのは湯気を立てる竹の皮。未だ呆気にとられたままの俺に向かって、
縁は頬を紅潮させながら喋り続ける。

「本当は、チョコレートを渡すらしいんですけど、針様、外国のお菓子、あんまりお好きじゃないって、
荒様という方にお聞きして・・・それで、あの、おかかのおにぎりにしたんです!
ちょっとだけ色が似てるし、おにぎりなら私も得意だし、
針様も食べて・・・下さるかなって・・・」

全力疾走・・・否、飛んできたせいで息が上がり、緊張も相まって言葉は切れ切れだったが、縁はとても幸せそうだった。
「・・・そうだったのか。ありがとう」

それだけいうと、1年前に勝るとも劣らぬ幸せが、己を満たしてゆくのを感じた。

「この間の節分の時は、申し訳ありませんでした。私、また泣いちゃって・・・
よく考えたらこれからだってお会いできるのに、すっごく寂しくなっちゃって・・・
本当は、もっとお傍で色々教えて頂きたくて・・・」

程なくして落ち着きを取り戻した縁は、困ったように俯いた。
俺は、何かいおうと思ったが。
何かいわねばと思ったが。

何だかとんでもないことをいってしまいそうで。
それ以前に何だかとんでもないことをしてしまいそうで。
「針様?」
恐る恐る俺を見上げた縁に向けていえたのは。
「・・・これは、実にうまいおにぎりだ」
何だか、全然関係のない1言だけだった。



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