暗闇。静寂。空気は冷え切っている。
「先生・・・寒いですね」
私は耐え切れずに、ぎゅっと自分の身体を抱き締めた。吐く息が白い。
当然だ。此処は真冬の美術館なのだから。
「フ・・・寒いと言えば寒くなる。人間の感覚など思い込みで幾らでも操れる、
と学生時代に言わなかったか?

君は真面目な生徒だった筈だが、私の授業を聞いてなかったのかね」
聞いていた。真面目に聞きすぎていたから、私は今此処に居るのだろう。
「聞いてましたよ・・・確か2年の後期、18月第7木曜日の『人間2』の授業で・・・講義名は確か」
「『人形師とパペット〜精神に支配される肉体〜』だ」
「そうでした」
先生はゆっくりと、全く足音を立てずに歩みを進める。
私は3歩下がってその影を踏まぬよう注意しながら、
こっそりと呟いた。
「そして、3年の前期、−(マイナス)8月第5木曜日の『人間3』の講義、
『泥棒幻想』の授業が、
今の私を此処に至らせたんだなぁ・・・」
「君!静かにしたまえ。監視員がいないとはかぎらんぞ!!」
先生に注意されてしまった。でも、監視員などいるわけが無い。
この美術館にはそんなもの必要ないのだ。

私は首をすくめ、でも先生に言ってやった。
「先生、監視員なんていないって、御存知でしょう?」
この前入った博物館には、腕っぷしの強そうな大男が数人いた。
でも、その方が返って仕事はしやすかった。

人間というのは、実は1番扱いやすい生物だ。何故なら私が人間だから。
まんまと彼等を眠らせて、7000年前の王家の日時計を盗み出したのだった。
しかし、この美術館には人間はいない。
何故なら、此処に居るのは魔術師たちが生み出した『命有る美術品』なのだから。
彼等は、自分達の身は、自分達で護れるのだ。
「わかっているさ・・・ただ、何となくだ」
先生はそう言うと、それっきり黙りこくって、歩き続けた。私はつと周囲に視線を泳がせる。

大きなアクアマリンの珠の中で、スターサファイアの魚が泳いでいる。
木製の神像が、台の上で寝返りをうっている。
大理石で出来た恋人達の像が、抱き合って眠っている。
『炎』を表したとかいう訳の分からないオブジェが、時折思い出したようにくるくると回転している。

彼等は皆、自分に何も無ければ目覚めない。
人に見られ、誉められ、破格の値段をつけられた彼等は大概が高慢で、自分本位な性格の持ち主だった。
「ねぇ、先生、美術品って、嫌な奴が多いと思いませんか?」
私が毒づくと、先生はちらりと一瞬此方を振り返って、言った。
「当然だろう。人間だって、ちやほやされたら高慢になる。我侭になる。
彼等は、生まれながらにそういう環境に置かれているのだ」
「はぁ」
「彼等の性格付けをしたのは人間さ。それなのに彼等を悪く言うのは、私はどうかと思うぞ」
やっぱり、この人はちょっと変わっている。
私は改めてそう思った。

「おお・・・いたぞ!」
先生が、興奮した声でいった。
私達の目の前では、首の無い女性像が、美しくも煽情的な肢体を曝して、眠っていた。

「やっと、お前を迎えに来られた・・・『堕とされた乙女』よ!!」
そう言いながら先生は女性像に駆け寄り、そのしなやかな手を取った。
『堕とされた乙女』・・・それは今から300年前に、有らぬ罪を着せられて、斬首された女性の像。
彼女の首は、破損したのではなく、元々、無い。
「さぁ、私と共に来ておくれ。私の元へ・・・」
先生は彼女の手に頬擦りし、騎士のように接吻して、横たわる彼女の身体を抱き上げた。
材質不明の女性像は、素直に先生の腕に収まっている。
「先生、急ぎましょう。そろそろ早起きの絵画なんかが起き出しますよ」
『堕とされた乙女』を抱いたまま動こうとしない先生の肩を叩くと、先生ははっと我に返って、立ち上がった。
「そうだな。再会を喜び合うのは後でも可能だ・・・。よし!急ぐぞ!!」
「はいっ!」
私達は、眠れる美術館を後にした。

翌日、新聞に<『堕とされた乙女』、誘拐?>という見出しが大きく載っていた。
「出てますよ、先生」
私はハーブティーを飲みながら、先生に新聞を渡した。先生は、話題の乙女を膝に乗せ、
ご満悦といった感じで新聞を受け取った。
「この前の日時計より騒ぎが大きいな」
「そりゃそうでしょう。<堕とされた乙女>はあの美術館の目玉ですから」
「目玉、か」
彫刻の乙女が、甘える様に先生の首に腕を投げかけた。
先生は自信に満ち溢れた微笑みを彼女に返し、
天井を仰いで言った。
「彼女は他の美術品とは違う・・・あんな場所にはいたくない、
何処か別の場所へ行きたいと常々願っていた・・・。首の無い己の姿など、人々に見られたくないと、
心の底から思っていたのだよ」
「先生は、そのことを御存知だったのですね」
「ああ・・・。私が子供の頃、初めて彼女にあった時からずっと、な。だから、迎えに行った」
先生は乙女を抱きかかえ、自室の方へとゆっくり歩き去っていった。
やはり、先生は変わっている。

しかし、私は先生について来てよかった、と思っている。
(何処までもお供しますよ、先生)
私は朝食の支度をする為、キッチンへと向かった。


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