人は産まれてくる前に、天使の接吻をもらうのだという。
ろくに目も開かぬ赤ん坊の、あるのかないのかわからない鼻の頭に、そっと。
そうすると人は、産まれてくる前に見聞き知っていた何もかもを忘れて、
まっさらになって出てくるのだという。
「まあ、今日はお絵かき?珍しいわね」
眠るときと食べるとき以外は、たとえ雨の日でも外を駆け回っているような幼子が、
今日は一心不乱に炭を握り締めている。
ところどころが黒く汚れた紙の上には、天使と思しきものがいる。
「それは、天使さまね」
母親は薄墨色の髪の、まだ皮膚の柔らかい息子の頭をそっと撫でた。
「はい、そうです。きのう、ベッドでねむっていたら、わたしにあいにきました」
また一段と達者になった父親の口真似に、母親は喜びの溜息を漏らした。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日も。
天使は自分が接吻した子を静かに見守っている。
運が良ければ出会える。
「・・・だれかいるのか?」
騎士の真似事をはじめた少年は、木陰を覗き込んだ。
伝説の剣に見立てた木の枝を全身を使って振り下ろしたはいいが、勢い余って転んでしまった。
こんな格好の悪いところ、誰も見ていないと思ったのに。
優しげで、でもとても心配そうな誰かの眼差しを、確かに感じた。
「でてこい。わたしにはわかっているぞ。そこにいるのだろう!」
枝を握りなおし、少年は大またで木陰に近付く。
ふいに訪れる薄暗闇。
太陽の手を離れた空気は、蜂蜜と薄荷のにおいがした。
ただ、それだけ。
あなたをずっとみていますよ。
きょうは、また1つあたらしいことをおぼえましたよね。
あなたはどんどんおおきくなる。
ぼくにはそれが、とてもうれしい。
「そろそろ、いい頃合だな」
小春日和の昼下がり、父の部屋へと呼び出された少年が、聞いた言葉。
「何が、いい頃合なのですか?」
「この子がお前の竜だ」
そういうと、父は勢いよくカーテンを開き、息子に微笑みかけた。
柔らかな日差しの下、大小2頭の白い竜がこちらを覗き込んでいるのが見える。
大きい方は、父の竜だ。
「あの雌竜ですか?」
暖かな筈なのに、小刻みに震えているドラゴン。
まるで怯えているように見えるではないか?
「少々気弱な娘なのだ。だから、お前も優しく接してやるのだよ」
古より神話や叙事詩や英雄譚と共に在る生き物は、
黒水晶の目に明らかな人見知りの光を浮かべていた。
「・・・」
沈黙する少年に、父は満足げな声をかける。
「名前をつけてやりなさい。そうして初めてあの子はお前の竜になる」
「では、私はあの白竜を<勇気の光>と名付けます」
今はまだ名前負けしてしまうけれど、
いつかきっと、自分と共に天空を駆ける戦乙女にしてやるぞ。
少年の灰色の目が、この日初めて微笑んだ。
上弦の月の下で青年と少年の狭間に立った竜騎士見習いは、足元の水面を見つめていた。
いつも、側に誰かがいる。
父でもなく、母でもなく、乳母でもなく、教師でもなく、誰か。
とても近いところにいる、おそらくは抱き締めてくれたことだってあるのだろうが、わからない。
「貴様は今、喜んでいるな?私には分かる」
あのにおい。忘れもしない、涼やかな甘いにおいがする。
「明日、異国へ旅立つ。供の者達を連れてな。もちろん<勇気の光>も連れて行く。
1年の間異国を巡り、戻った私は晴れて1人前の竜騎士となるのだ」
父から譲り受けた。白銀の槍を背に、甲冑を纏って。
「当然、お前もついてくるだろう?」
何時如何なる時も、側にいたのだから。
「出発は朝早い。今日は、ゆっくりと休むのだぞ」
外套を揺らした風が、小さな泉に波紋を投げかける。
もちろんいっしょにいきますよ。
いつでも、どこでも、どんなときでも、ぼくはあなたといっしょにいきます。
あなたのいのちのおわりまで。
寝所へと急ぐ背中に、ふと温かみを感じる。
振り返った視線の先に、細い手と、それに続く大きな翼と、金色の髪が揺れて、消えた。
もう、何のにおいもしない。
今日の夜はもう、この家では眠らない。
「気をつけてね」
「くれぐれも、無茶はするなよ」
「心得ております。父上も、母上も。お元気で」
抱擁を交わして、彼は天を仰いだ。
高い高い青は澄み。風がもつれることなく流れている。
身体にぶつかった風に、優しいにおいが弾ける。
さあ、いきましょう。
無言の声に背を押され、竜騎士は大地を踏みしめた。
了